なかまち銀座商店街の起こり
昭和10年頃に始まった大泉学園駅北側に位置する東大泉仲町商店街は、現在も大泉学園の街の人々の生活に彩りを提供しています。
当時の面影を残した記録「昭和10年頃の我が町」故 加藤 惣一郎氏の回想録によると大泉学園駅は、今から87年前、大正12年(1923)年に草原の中にポツンと開設されたモダンな造りのものだったようです。
大泉学園駅は(武蔵野鉄道)現在の西武鉄道で大正12年開設と聞いる。
駅舎に向って右側に武蔵野鉄道箱根土地株式会社の四階建相当の高さのビルが事務所として、周りは草原で他に何もなく駅前広場は砂利敷道路だった。左側はやはり箱根土地会社の乗合自動車の車庫、それ以外は草原。戦後三幸(メリヤス)工場に成った。当時駅舎は洋風で洋瓦葺のトンガリ急勾配の屋根で外部も白のドイツ壁で塗潰し、なかなかモダンな建築物で人目を引いていた。ホームの長さは4両編成の車両が止まる程度の長さで真中に三坪ぐらいの待合所があり、1時間に2本程度の運行であった。東の先が引き込み線で貨物ホームがあり、向かい合って塩の倉庫の建物が有った。
駅南口は昭和12年頃開校された小学校の農場と2・3軒の商店、後は澤庵倉庫で、そのほかは杉の森に覆われて、夜は寂しく昼間も人影はマバラであった。昭和10年頃、私が小学校に入学する頃は北口駅前には加藤さん(丸福)ビリヤード、瀧島ポンプ店、学園堂書店等何店舗か揃っていた。北口駅前より大泉街道までを北口商店街と称していた。北口商店街は東側より、加藤福太郎商店(かき氷の店)加藤芳雄商店(蕎麦屋大衆食堂)後に日通発送所、瀧島ポンプ店、学園堂書店、矢治針灸診療所、山辻果物店、原っぱ、並木石材店、原田屋米穀店倉庫、カネスイ蕎麦処、その先は大泉街道まで原っぱだった。
<中略>
仲町通りは、瀧島ポンプと学園党書店の間を東北に大泉街道まで走る通りで、北側は学園堂書店、桐畑、住宅加藤、住宅岩本、山口医院、道を挟んで洋館風住宅、小松大工、滝本魚文商店、住宅篠、藤田屋裏口、丸福裏口、街道にでる。南側は、瀧島ポンプ店、岡野煙草焼き団子商店、塚田八百屋仲買、小路を挟んで、桐畑、住宅高橋、小路を挟んで、飯嶋髪結、栄養食堂(大泉製糸組合で女工さん達の給食を賄う施設)住宅、住宅、火の見櫓まで両側で18軒程の住宅と商店が並んでいた。
~「昭和10年頃の我が町」故 加藤 惣一郎氏回想録より一部抜粋
現在、この東大泉仲街商店街は、地元密着型商店が数多く残りながら、人気のチェーン店も並ぶ、アーケードなどはなく一見派手さの無い商店街だが、むしろ、街の中に自然に溶け込んでいる感が心地良さを醸し出している。ともすれば、見逃してしまいそうな、その店独自のサービスや名物、品質の良い品物を数多く発見できるこだわりのお店が並んでいます。各店ともにその店の良さを前に出しすぎる出なく、さりげなく、良いものを、良い価格で、お客様と対面し、言葉を交わしながら販売する。暮らしに根付き落ち着いた感じのよい街です。
しかし、そんな落ち着きの中にも、驚くほど、こだわりの商品が並んでいたり、勢いのある八百屋さんや、タヌキがいっぱい並ぶ新鮮なお魚屋さんがあったりと街人の胃袋に直結していることも忘れることができません。
昭和55年(1980年)からは、東大泉仲町商店街振興組合も設立され、振興組合を中心とした、商店街の活動も活発に行われています。
西武池袋線沿線の住民の方々にも、大泉学園の駅で降りて北口のこの商店街で買い物を楽しんでいただければ幸いです。